living in color

思想、あるいは妄言

ブログトップ

初めまして。こにぴーと申します。

ポケモンとディズニーが好きです。

 

人は誰しも多かれ少なかれ悩んだり、考えたりして生きていると思います。

ただ、悩み事が尽きない人生は大変ですから、人の脳というのは寝たら大概のことは忘れます。忘れられるようにできています。

しかし、せっかく少しでも考えたのなら、保存してもいいのではないでしょうか。

今の自分が過去の積み重ねであるように、未来の自分は今の自分の積み重ねです。

今を意識することは、すなわち未来を意識することになるのです。

 

そんな訳で、このブログを書いています。日記、映画や小説の感想文などを中心に、いろんなことを雑多に書いてます。

極力推敲せず、ありのままの自分の言葉を残したいと考えています。文章を書くこと自体とても苦手なので、ひどい文章ではありますが、少しでも目を通してくださると幸いです。

2026/03/07_0.75のあなたと

前回に続き、音楽のタイトルが続いてしまった。特段意図はしていない。前回とは違ってさっさとタイトルを回収しに行く。

 

3/4拍子というのは、前回の記事で書いたワルツに代表される、1小節に3つの四分音符で構成される。それに対し6/8拍子は1小節を6つの八分音符で構成している。

これだけ聞くと、その四分音符を分割して八分音符にすれば結局同じものではないかと思うだろう。

3/4拍子と6/8拍子、約分すれば同じなのに何故歴史はいずれかを排除しなかったのか。それはその2つが似て非なるものであるからだ。

 

その違いとは、アクセントにある。

アクセントとはつまり、手を叩く場所と考えて相違ない。

ここではあえて3/4拍子も八分音符6つとして考えてみよう。3/4拍子はこの6つのうち、1,3,5番目にアクセントがある。1小節で3度手を叩くということ、これがよく言う3拍子だ。

一方6/8拍子は1,4番目の2度しか叩く場所が訪れない、つまり2拍子系のビートということ。これが両者を隔てる決定的な特徴である。

6/8拍子は、小節単位では水族館を歩くようなのんびりとした2拍子だが、拍単位では前回私が歩きづらくプライドが高いとした3拍子が顔を出す。この二面性を表すためには、2と3の最小公倍数である6を使う他なかった。だから今日に至るまで、偶数の中に奇数を孕む6/8拍子は3/4拍子と区別されてきたのだ。

 

✄-------------------‐✄

 

少し指を動かせば出てくるようなことをここに書いたって仕方がない。ここからが本題。

衝動のままに書く。経験上、こういう勢い任せの惚気じみた文章は別れたときに黒歴史となるためすぐに非表示ないし削除してしまうのだが、書かなければ仕方がないのだ。

 

ところで、偶奇と聞くと僕は不意にサイコロを思い浮かべる。そんなサイコロを用いた確率の問題の中に、偶数が出れば右へ目の分進み、奇数が出れば左へ目の分進むといった類のものがあるのを思い出した。n回振った時、サイコロが元の位置にある確率は?といった具合だ。

 

さて、そんな前置きをしたところで今日は僕の彼女のクセについて少し述べてみたい。

それは、"自分が相手に対して負の感情を持った時、自分方向にも等量の負の感情を持つことでその気持ちを0に抑える"ことだ。

例えばチームメンバーの動きが鈍く、こちらの段取り通りことが進まなかった時、きっと誰しもが「指示出してるんだからさっさと動いてくれよ」と思うだろう。

この時、僕なら「ちょい、はよして。分からんとこあったら聞け。」などとストレートに言って改善を求めるのに対し、貴女は自分の内で「でも私の指示も不明確だったし、事前説明も足らなかったな」と、相手を正当化するために自分にその刃を向けることでその場を収める。

僕はこれを教育者的だと感じる。元より貴女の"そっと寄り添い自然と導く力"には気付いており、そこに人間として深く惚れ込んだから貴女のことが好きなのだが、それはきっとセンスなのだろう思っていた。しかしそうではなかった、この内省こそがその源だったのだと気付かされた。僕は貴女のこのクセをとても尊敬している。きっと生涯僕には出来ない芸当であろう。

しかしこれにもサイコロや6/8拍子同様二面性がある。彼氏としては大変厄介な悪癖なのだ。僕のような察しの悪いガキは嫌と言われるまできっと続けてしまう。

今まで僕は彼氏は育てるものというスタンスを半ば押し付けてきた。自分好みの彼氏を作るために褒め、叱り、愛すのだと。しかしそれでは彼女が先に潰れてしまうかもしれない。そう思うと、できないなりにでも先回りして変わろうと、そう思えた。

 

貴女は自分のことがどのくらい好きなのだろう。きっと僕の方が貴女のことを好きだと思う。そう感じるほどに沢山の傷口が開いたままでいる。

出来るだけの努力はする、きっと貴女の1/4か2/8を僕の愛で満たすから。だからいつかその時は、僕と4拍子の曲で踊ろう。

 

✄-------------------‐✄

 

P.S. このクセに気付いたきっかけの話。(惚気注意)

1月のある日、次の日は午後からの活動なため今晩は電話しようという我々にとっていつもの提案を断られた時があった。やるべきことが片付いていないのか翌午前の予定が入ったのかと思い理由を聞くと、「今の私めんどくさいから迷惑かけたくない。」とのこと。明らかにいつもと様子が違ったため、無理矢理に電話をかけた。

すると、もしもしよりも前に貴女は泣き始めてしまった。色々聞くと、定期演奏会に向けた練習が上手く進まず、その原因を実行委員である自分のせいにされ、さらには昨年の先輩たちと比較されたと。

僕は思った。泣き顔を見ないでいてあげれる電話越しよかったと。きっとそうでないと貴女は僕の寝息が聞こえた後に嗚咽を殺して泣くだろう。

この時でさえ貴女はそんな凶器を投げつけてきた相手と同じ分だけ自分に怒っていた。

僕は思った。どうして今直接抱きしめられる距離にいないのかと。きっとそうしないと貴女は貴女を含む誰からも守ってもらえない。

その時の僕にできたことは、深呼吸を促すこと、大丈夫と声をかけること、そして今理解したばかりの貴女のこのクセを言語化して理解を深め、明日に繋げてもらうこと。たったこの3つしかなかった。

相反する2つの感情、共通する無力感、その時ふつふつと湧き上がる腹立たしさに、僕は貴女のことが好きなんだと、静かに再確認させられていた。

2026/02/19_アンドゥトロワでお願い愛して

・仮定

自分に対しての感情は、自己肯定・自己否定・自己愛に分けられる。

これらは非常に絶妙なバランスで複雑に絡み合い、自己を形成している。

どれかが肥大したり萎縮・欠落すると、自己が歪み、精神状態に異常をきたす。

 

僕の

・自己肯定について

そもそも自己肯定とは、自分そのものを認め、ありのままの自分をかけがえのない存在として肯定的、好意的に受け止めることができる感覚のことだそう。下記リンク参照。

自己肯定感とは? | 一般社団法人日本セルフエスティーム普及協会

僕は現代人らしく自己肯定が弱い人間である。自己肯定とはとググってしまうほどに。

他者から評価される相対的な基準に重きを置きがちであり、自己承認欲求が強い。なぜならそれは自分で自分を褒める何倍も愉悦に浸れるからだ。

勉強のようにSでなくても単位が取れればよいという割り切りからくる自己肯定は何度か経験しているが、それは最低限のゴールが設けられているからであり、できていないけど自分にしては上出来なんてことは、大学の外を出ればまあ存在しないのである。

 

・自己否定について

僕は自己否定が比較的強い人間である。口では前向きなことを言うが、その分裏で吐かなければならない。義務ではないのだが、吐かなければきがすまないのである。

僕を見つめて僕を蔑むだけであれば対して他の人に迷惑はかけない。しかし僕の厄介な所は他者をみて僕を蔑んでしまうところにある。

これはあくまで自己評価であるが、僕は人の良いところを見つけるのが上手い。ざっくり鍵に通っている人であればみんな良いところが言えるだろう。

しかし僕が、いや社会的な人であれば皆、見つけられる他人の良さは、必ず僕が持っていない、もしくは僕より優れている部分である。自分の方が優れている部分を褒めるのは嫌味である(嫌味にならないように伝えるときに人は過程を褒める)。

悪い言い方をすれば、つまり要素を褒めるということは自らがあなたより劣位であるということを認めるということである。

これを素直な羨望として捉えられたらどれほど楽だっただろう。自分の強み、違いを理解している人はそうできる人が多い。またそれによって焚きつけられてモチベーションが上がるタイプに生まれていても楽だっただろう。

自分より上がいることを理解してしまうと、その人に頼めるだけの信頼関係を作ることにフォーカスし、自分自身にそのスキルを身に付けようとしなくなってしまう。なぜならそれを超えられないことを理解してしまっているから。

自分が劣位であることを理解するのが上手いからこそ、それが自然と自己嫌悪に繋がってしまう僕は、皮肉な話自己否定のプロなのである。

 

・自己愛について

僕は自己愛がとても強い人間である。褒めて伸ばす教育の賜物であろう。一人っ子で親から大事に大事に育てられてきた自覚はある。

5歳から始めた空手は利き足が左で顔の高さまで足が上がったことから大会では1学年上の階級で出場して優勝するほど強く、自分の地区ではかなり名の知れた存在であった。

小5から始めたソフトボールは人数不足のおかげで即レギュラー、中高は1,2年の頃こそ控えではあったが、3年生ではレギュラーで出場しできた。

勉強もそれなりに出来る方ではある。共通テストはコケてしまったものの、世間にそこそこ名の通る大学に入学できた。

これまでの20年、成功体験がほとんどを占めている。強いて大きな失敗体験を挙げるとすれば恋愛、また人間関係であろう。これは現在進行形で上手くいっている自信がないが、恋愛できているだけマシ、次に進めているだけ平均は上回っているという発想もできてしまう。

ではどうして失敗体験が少ないか、それは自己嫌悪に由来する"負け戦は初めから挑まない"からである。戦わなければ無敗であるという発想が根底にあり、虎の威を借りれば僕はその背中をついていくだけで、"手綱を握っている"風に見えて他者から評価される。

これに甘えてきた結果、周りから腫れ物扱いされるほどにまで自己愛が肥大化してしまったのである。

 

・結論

以上の点をまとめる。自己肯定は萎縮し、自己否定と自己愛が痛々しいほど肥大した。

結果、ろくに行動しているわけではなく、できることがあっても継続させることが出来ないくせに、世間体を気にした絵空事ばかりをならべ、無駄なプライドと戦いながら自分で自分を縛ってしまい、行動してもダメ行動しなくてもダメの何をしても自己嫌悪に陥る袋小路に嵌り、最終的に部屋に籠って惰眠を貪るだけのモンスターが誕生した。

 

この文章を書いて皆に痛みを共有しようという行為さえ、愚かで哀れな発想から来るものであり、本来はこの時間にも自分が出来ることの範囲を広げられるように必死になって何かを勉強した方がよいに決まっているのだ。

そんな僕は頑張るみんなの足を引っ張るカスでしかないため、役職を持たなければならない責任世代が過ぎれば早々に消えてしまうべきなのである。

 

✄-------------------‐✄

 

不快になる文章が終わったところでタイトルを回収せねばならない。

 

僕と同じくらい、いやそれ以上に自己愛が強いものとして3拍子が挙げられる。

人間は足が2本の都合上、偶数の拍子の方が都合が良いことが多いだろう。音楽を聴きながら散歩をするとき、2,4拍子と3拍子であれば前者の方がリズムに乗りながら歩きやすいはずだ。

しかし3拍子は随分と自己愛が強かった。才能ある人間が3拍子の良さに気付き、名曲を生み出すのをずっと待ち続けた。

そして本当にその日が来てしまった。バレエ音楽やクラシックに採用され、ワルツという音楽的な分類が与えられ、人々からワルツは優雅で美しいと言われるまでになった。

なんて自己愛に溢れたプライド(世間は格式という綺麗な日本語をあてる)の高いリズムなのでしょう。

「眠れる森の美女」というタイトルを付けたチャイコフスキーは、王子のキスによって目覚めるその日を待ち続けた3拍子の自己愛を見透かしていたのかもしれない。

2025/12/01_凡人未満は金を出せ

実は今期結構ランクマ頑張ってた。ムンフォツアーで予選抜けれるくらいには。

学年オフ以外でランクマルールのオフ抜けたことなかったので、最後に抜けたかったのと、自分の中でやればできることを証明したくて。

超デフレシーズン、ポケモンやったことある人なら誰でも3桁に入れるボーナスタイムにも関わらず、結果は惨敗。25日の1831が最高、以降は語るに至らない。

悔しいというよりも、悲しいのほうがあってる。改めて自分の弱さに絶望した。

 

最近色んなオフ運営の人と話す機会が多いが、誰に話を聞いても「こにぴーはまずランクマで実績残すところからはじめよう」「もしくは遠征行って直接声かけよう」と言われる。

これは間違いなく正しい。ド正論 of the year。極論最終1位の人がオフ開けば多分どこでやっても定員埋まるし、この世の全てのオフに出てる人がオフ開けばどこでやっても埋まる。

今オフを主催している人のほとんどは剣盾やUSUMで結果を残している。勿論ライフステージが変わったSVでも一定程度の結果を残し続けているし、我々にとって憧れの存在であることに変わりはない。

では、今様々なオフの主催や運営に関わっている僕は何を持っているのだろう、どの実機勢に憧れてもらえるのだろう。

何がこにぴーオフだ。カード勢でかさ増ししたただの身内ノリではないか。レベルの高い大会を目指すのならまずは自分が結果を出して、記事を書いて、参考にしてもらって、そしてそれを継続することで名前を売らなければならない。

 

ポケモンに向き合うことが出来たはずの大学1,2年がもう終わろうとしている。今以上にポケモンに取り組める時など無かったということに今になって気付く。

かれこれポケモン対戦を始めて5年以上が経つ。それで最高レートが1915。笑える。

 

ポケモンに才能がなかったことなどとうの昔に分かっている。しかしそれでも自分が楽しめる対戦をしたいと言って努力から逃げてきた。そのツケが自分がやりたいことをするときに回ってきた。

初めから教えといてくれよ、なら剣盾の頃もレシラムなんか使わずザシアン握ってたよ。何が冠環境はエスバとサンダーより速くてダイジェットが打てるプテラが最強だ。

 

これは前々から考えていたことがだが、九州連盟の代表になったとすればあと1年だけオフの主催をやる、ならなければさっさと豊縁を手放す。言わば隠居。

ランクマ頑張ってる子がオフやりたいって言いだしたときだけ運営として手伝うし、主催のノウハウを渡す。主催は自分のオフに集中してもらって、僕は遠征してそのオフの名前を直接売りに行く。凡人、いや凡人未満は金を出して東京に行って予選落ちして色んな人と話してオフを宣伝して酒飲んで帰ることしかできないので。

そうやってオフ文化を次の代に引き継げたなら、俺は何か意味のあることを福岡に残せるのかもしれない。これが1番良い形ってことになるの悲しすぎるけど。

 

書き殴りの文章で申し訳ない。色んな負の感情があるけれど、結局のところは自分の実力不足を直視してヘラってるだけの弱者男性の泣き言。ダサいね。

じゃあそろそろみんなの結果報告をRTでもしましょうかね、リプできる元気はないけれど。

 

みんなおめでとう。

2025/11/05_生きる屍とならぬために

急に冷えたため急いで分厚いかけ布団を出した。家に帰るとやらなければならないことを放って、すぐに部屋着に着替えて布団にくるまっている。

そうこうしていたらいつの間にか寝てしまっており、ハロウィンを過ぎてしまった。せっかく合わせて書きたかった文章があったというのに。

せっかくだからここで供養させていただきたい。

 

✄-------------------‐✄

 

先日、と言っても9月後半の話なのだが、僕は彼女(これまでの記事に出てきた"君"とは別の人物)と3泊4日で東京・ディズニー旅行に行ってきた。

初日の東京観光の日の夕食は僕がぜひ行ってみたかったメキシコ料理に付き合わせた。そこはまるでディズニー映画「リメンバー・ミー」のような、オシャレな雰囲気、本格メキシコ料理、スタッフの生演奏を楽しめる場所である。

タコスやトルティーヤ、テキーラのカクテルなどを頂いた。本当に素敵な空間で、本当に値段以上の価値があったなと感じた。

翌日はディズニーシーへ。ハロウィンイベントが開始して3日目、今年はリメンバーミーのイベントがロストリバーデルタで行われていた。キャストが不定期に表れてはメキシコ音楽や作中曲を演奏してくれる。僕たちもそれをタイミングよく見ることができ、なんと運良く主人公のミゲルにも会うことが出来た。

なんだかずっとメキシコにいたような気がする、そんな2日間であった。

(惚気バートとかいういずれ黒歴史と化す文章)

 

リメンバー・ミー」では、人は2回死ぬとされている。

1度目は一般的に死とされている生命活動の終了、2度目は生きているみんなから忘れられること(以降、社会的な死と呼ぶ)だという。そのためメキシコには家族の写真を飾る大きな祭壇があり、毎年死者の日をお祝いして皆で彼らを思い出すのだ。

映画は大変面白く、ラストシーンは毎回感涙してしまう。物語の鍵となるのが音楽というのもあり、どれも本当に素晴らしい曲ばかりであるため、ぜひ一度ご覧いただきたい。

 

✄-------------------‐✄

 

ようやく本題に入る。

人は2度死ぬらしい。ではその順序を入れ替えてみよう。社会的な死→生物的な死だ。

皆から忘れられ、誰からも求められず、認識されない中でも生命活動をしなければならない、生存本能さえ邪魔だと感じながら生き地獄を彷徨う。死んだ人間というのは絶望しているのだろうか、それとももう抗うことをせず無気力にいるのだろうか。

インターネットに何かを吐き捨ててみてもいいねは0、そのことを嘆き井戸に向かって歌えば気分は白雪姫だ。しかしきっとそのような教養や趣味に富んだ発想を実現させる行動力さえ持ち合わせていないだろう。突然フェアリーゴッドマザーが現れ私に友達を恵んでくれるかもしれないなどと妄想してみるが、自分には動物の友達すらいないシンデレラ未満の人間なのだという現実しか残らない。ならば自分は塔に隔離された悲劇のヒロインなのだと仮定してみるが、誕生日に上がるのはランタンではなくtwitterの風船のみである。

ほんの数分想像しただけで身の毛がよだつ、死ぬことがこれほど怖いとは。

 

人は誰かと関わっていなければ生きていくことが出来ない、少なくとも僕は。

友達がご飯に誘ってくれて、バイト先の人と雑談して、家族と食卓を囲んで、恋人と笑い合うことがどれほど尊く有難いことか、そしてそれがどれほど人間らしさを形成していることか。

承認欲求というのはいわゆる三大欲求のような生命活動に必要な欲求とは違い、人間だからこそ肥大化するとても社会的な欲求だ。承認欲求に突き動かされるのは正しくないかもしれないが、それが存在することを否定するべきではない。

多かれ少なかれ存在するそれを、どのように扱い、自身の活力として消化(昇華)していくか。承認欲求と非常に相性の良いインターネット時代に生きる我々にとって重要なテーマである。

 

生物よりも社会的な寿命を伸ばそうという意識は、承認欲求と近しいものである。

きっと偉人達もはじめこそ社会のためになどと考えていただろうが、成功した後は偉大なお方として扱われることに優越感を感じていたことだろう。それをさらなる飛躍の糧にした人もいるかもしれない。

生物的な寿命は変域が比較的小さい。せいぜい100年ほどであろう。対して社会的な寿命はかなり大きい。何世紀と語り継がれる者もいれば、生きているうちにもう誰からも忘れられる者もいる。勿論外的要因や運も絡むのは当然として、どちらが我々の努力対効果が大きいかと言われたら僕は後者であると考える。

今を共にしているポサのみんなや九州勢たちとは、大学卒業や就職の関係でいずれ離れることになるだろう。そうなった時に、年に1度でいいから僕のことを思い出してご飯に誘ってもらえるように、今日を懸命に生きて、他者から認められたい。

こにぴー抜きでは我々の世代は、いや九州は語れないと言わせてみたい。

名の知れた存在になりたいという欲が微かに、しかし確実に存在する。時間の限り、僕はこの欲を燃やして輝いていたい。

 

P.S.学祭で体調不良をぶり返したので投稿が遅れている。死者の日は11/02。

2025/09/23_センスの磨き方についての考察

この人センス良いなーって思った人になんとなく共通する部分があるように感じた。

ここでいうセンスは、自身の好みや似合うものを理解しているという意味で使う。例えば自分に似合う服を知っていたり、家具の好きな風合いを理解していたりと、好きという一貫したものを持っていて、かつそれが様になっているということを指す。

 

その共通点とはずばり、「コレクションからセレクションへの移行」を経ているということである。

 

・まずは誰しも"コレクション"するところから始まる。それがぬいぐるみなのか、服なのか、写真なのかは好きになったものによるのだが、とにかく数は愛情を表現する絶対的なものであることに変わりはない。

好きになるということは、それで部屋や心をいっぱいにしたいと思うということである。それを実現すべく様々なグッズやデータを集めることが、まずは第1歩であろう。

 

・その次に、それをどう区分し系統ごとに分けていくかというフェーズに移っていく。これこそがセンスが目覚めだと考えている。

僕でいえば小説だろうか、単純に作家の五十音順で並べるのは確かに整然としていてまとまっているが、それだけでは味気ない。

例えばジャンル(ミステリー、恋愛、海外作品…)ごとに分けてみるなどが定番だろう。他にも○○な気分の時、○○な季節に読みたいといった分け方もその人らしさが出る。

絶対数が増え、自分の目も肥えてきたからこそ並べ替える楽しさに気付けるのだ。

 

・しかしここで悲しいかなある欠陥に気付いてしまう。そう、全てを集めることは不可能ということに。それはお金が足りないからか、それとも部屋が狭いからかは分からないが、どこかで何かを諦めなければならない。

ここで初めて"セレクション"が発生する。系統に分けたことにより自身の好みがコレクションしていた時よりも色濃く表れているはずだ。その中で最も好きで自分らしいものを残しその他を手放す、それにより空いたスペースに自身の好きを敷き詰めていく。

これによってその人らしさ、すなわちセンスが磨かれていくのである。

 

ポケモンもそうだと思う。いろんな構築を試してコレクションし、ポケモンの動かし方によって対面・サイクル・展開とジャンル分けし、その中で自分が上手く使える構築を探していくからこそ、強者はその人らしい構築というのをいくつか持っているのだと思う。

 

引き算の美学とはよく言ったものである。それが出来る人間はセンスがあると感じられる人間の本能に感謝して生きていきたい。

2025/08/29_一人外出のすゝめ

豊縁オフは僕の脳を4月の頭から前日に及ぶまで絶えず蝕み続けた。

勉強していても、バイトをしていても、ポケモンをしていても、常に頭の片隅に存在していた。

その異物感たるや。僕の成績を落とし、ランクマの気力を無くすのは言うまでもない。

全てのものが豊縁オフの片手間であるようにさえ感じる。自分が最も熱量を持っていなければならない、責任感という名で正当化されたプレッシャーで自ら余裕を無くしていく。

この記事の更新が止まっていたのも概ねそのせいと言っていい。外界を受容出来なかった、感情は一時の揺れであり数秒もすれば収まってしまっていた。

 

当日、開会の挨拶の拍手で全てが報われた気がした。

イレギュラーが発生した、大人が足を引っ張った、隣から文句も言われた。それでも自分は出来る限りの配慮と、皆が納得できる立ち回りをしたつもりだ。

こにぴーオフだと言わせたかった。当日は裏方を他の運営に任せて表に立ち続けた。

閉会の拍手で全てが終わった気がした。涙が出そうだった。twitterを見ればあの日同時にあったあめおふ、ばしオフ、輪舞オフのどのオフより盛り上がってると錯覚できた。

 

そして、1週間経ってようやく自分は自由になれた。厳密にはまだ終わっていない。しかし世界の見え方が変わった。

受験終わり振りだろうか、これほどまでの脱力感と多幸感に満ち溢れたのは。

どこまでも飛んで行ける気がする、実際は翼など備えていないのだけれど。

だから電車を使った。遠くに行ってみようと思った。ぱっと思いついたのが佐賀だった。だから16時に逆向きの電車に乗った。

家で惰眠を貪るだけの休日が、髪を切って佐賀でポケふたを撮る有意義な日になった。

 

今の僕はdiscordの通知など一切気にせずに遊べるのだ!あなたとのデート以外の外出も楽しめるのだ!

ただそれを証明したかった、他でもない自分のために。

神は陽キャと同じように外出を楽しむ心を僕にも携えてくれた、やはり天は人の下に人を創らない。

 

僕の僕による僕のための壮大な茶番に付き合ってありがとう。

2025/06/04_死にたがりは全員馬鹿だって話

カップラーメンを作るときに読めるくらいの文章量で。ダラダラととりとめもなく。

 

突然だが、僕は人生で数回本気で死のうと思ったことがある。初めて思ったのは小学5年生の時、自分が親や社会にとって迷惑なものでしかないと感じて居場所を失った。

その後も失恋したり、大きなミスを犯したりと、疎外感を感じる度に僕は誰ともつながっていないのだから死んだところで誰も気にしない、ならいっそのこと死んでしまいたいと考えるようになった。

先に結論を述べると、この考えは間違っている。

 

社会性とは人との繋がりを意味する言葉だ。多くのコミュニティに属し、いろんなキャラクターを使い分け、適材適所の自分を演じる。そうすることによって、仮にどこかのグループで自分がハブられたとしても、それは沢山ある自分のうちの1人が死んだに過ぎず、自分自身の完全な死亡、もっと言えば自殺願望には繋がらない。

別のコミュニティではそのことを引きずる必要は全くないし、釈然としないならインターネットで愚痴を吐けば気が済むだろう。

 

人は死ぬために生きている。神が全ての人間に平等に与えたものは唯一死ぬことだけである。生まれた瞬間から人は死へと歩きだしている。しかし確実に近づく死に対して、人間は諦観することなくその命を燃やしてきた。

死ぬまでの道のりまでは決められていない。その歩いた道のりが人生と呼ばれるものである。誰と過ごし、何を生業として、誰のために生きるのか、その答えを我々は僅か80年間で出さなければならない。そのために、今を懸命に生きている。そうしないと間に合わない。

 

自殺は、人間の死因の中で最も愚かであると思う。

今ちょっと辛いからなんて理由で簡単に人は身を投げる、ろくに幸せになる努力もしないで。いつまでも自分中心の世界で生きているから、周りのことなどどうでもよい。自分がしんどいから死ぬ。確かにそうすれば自分の時間は永遠に止まるだろう。

しかし周りはどうだ、君がいなくなっても時計は回り続けるのだ。親族は親を責めるだろう、友達は目を腫らす日々が続く、少しでも関わった人間は皆悲しみに暮れ、永遠に笑い声が聞こえる日が来ない事実に絶望する。

そう考えると、自殺するのはあまりにも無責任じゃなかろうか。

 

君がもう居場所がないと思っていたとしても、親は無償の愛を提供してくれる。恋人は有償の愛を育んでくれる。友達は損得勘定で君と関わっているわけではない。

周りは手を差し伸べているのに、手を引いているのは君の方じゃないか。そのくせ自殺したがるやつというのはもれなく被害者面をする。私は孤独で誰からも存在を認めてもらえないと。だから嫌いだ、反吐が出る。

 

何が言いたいのかわからなくなってきた。小5のときに考えた自殺についての問いは僕の人生観に大きく影響を与えることになる。それについてもいずれ話すことにしよう。

 

誰かのために生きてみろ

仲の良かった友達が自ら肉塊に堕ちる様は、少々醜すぎる。